草津界隈の30年前と、現在を比較してみました。
いや〜、変わるところは変わりましたが、残ってほしいところも
残ってますね。
草津川より草津駅を望む
1966年8月20日
さて、1年後と30年後の違いは如何に?
1967年10月1日
新草津駅の跨線橋が出来上がっている。本線左への分岐あたりの
バラスが新しくなっているが、形状には変化が無い。
2002年10月20日
変わっているところより、30年前と変わっていないところを探してみた。
左手前の旧国鉄官舎とその向こうの鉄塔は変わっていない。
線路の形状も、左側に2線増えた程度で、あまり大きく変わっていない。
草津川より京都方面を望む
1967年10月1日 2002年10月20日
画面中央部の踏み切りは今もある。右手の田畑はすべて工場や民家が建て込んでいる。
右手向こうの大きな建物はオムロン草津工場で、30年前は左画像にも見えるように
小さな工場であった。
草津線新線大築堤を望む
1970年10月31日 草津線普通列車
2002年10月20日
この家並みの向こう側が築堤で、家並みの隙間から
架線が少し見えるが、列車は見えない。
草津川トンネル
草津川は日本でも数少ない天井川で、屋根より高いところに川が流れている。
1967年1月 旧東海道線トンネル
次の画像でも少し見にくいが、旧トンネルが2線分とも残っている。
1968年頃 複々線工事中の草津川トンネル
2002年10月20日 草津川トンネル
レンガ積みの旧東海道線トンネルは、右端の1線分がコンクリートに改造されている。
旧東海道線トンネル点描
左)草津駅川からの入り口
中央)トンネル内部には、土壁のようなもので覆われた物置があった
右)京都方面からの入り口
ちょっと趣旨とは外れますが
草津川(天井川)について
天井川とは上流より川の流れとともに砂も流され川床が上がり、
洪水を防がんがために堤防を積み上げる。それが長い年月をかけて繰り返され
現在の姿になったと聞いたような。この川の源流近くの山は花崗岩で形成され、
小中学生のころには良く自転車で水晶を探しに出かけたものだ。数ミリのものは
見つけ、宝物のようにしていた記憶もあるが、もちろん今はもう残っていない。
ここは桜の名所でもあり、ここに掲示した画像は
昨年の春(2001/4/7)に陽気に駆られて出かけ、撮影したもの。
大きな佐桜の木の下では大宴会。右の画像の左手には、家の屋根が眼下に見える。
この川は治水対策により、平地河川化工事が進み、その工事が完成した暁には
取り壊されるかも知れない。現在この辺は残すとか、道路にするとか論議されている
様だが、このようなのどかな風景を見ると、なんとか残して欲しいと願う。
桜の木の向こうの大きなビルは、草津駅前のマンション。
右の画像では子供が水遊びをしている。
この川は、ほとんど表面に水が流れることが無いのだが、
この日は珍しく水量が多かった。
更に外れて
洪水の思い出
わが町草津では、台風や集中豪雨に見舞われると、
草津川の氾濫が心配の種であった。
実際私が小学生時代(40年位前)であっただろうか、
何度かこの草津川が氾濫したことを記憶している。
雨が降り出してしばらくすると、私の家の裏手にある市役所の屋上の
サイレンが鳴り出す。なにしろ私の家から200メートル程度のところ
で鳴り出すので、鳴り出す際の重低音が家中に響き渡り、
その不気味さは今でも忘れられない。しばらくすると町内の
あちこちから「堤防がきれたでぇ〜!」と声が聞こえてきて、
町内が騒然となる。草津川の堤防の決壊である。
やがて、町のあちこちから水が溢れ出し、やがて足首まで浸かり、
私の記憶で最高は膝位まで浸水したことがあった。
幼少の私は「一体どこまで水が来るのか」と不安な気持ちと、
この非日常的な光景への好奇心が輻輳していたような・・・
でも今思えば、いつの日からかそういう天候が少なくなったのか、
治水対策(と言っても、上流に大きなダムができたわけでもない)が
奏功したのか、そう言うことはなくなっている。
草津給炭水場
1967年頃の草津給炭水場
2002年10月20日 跡形もなくなっているが、左手のガードの
雰囲気からもここに間違いない。上の画像とは反対側から撮影してい
るので、下の画像と比較した方がわかりやすい。
1967年頃の草津給炭水場から、米原方面を望む
2002年10月20日 全画面とほぼ同じ位置から草津線列車を見送る。
前画像は恐らく給炭台の上から撮影したと思われ、目線が少し高い。
草津線旧線遺構
1970年11月22日 草津給炭水場近辺 旧線レール
2002年10月20日に訪れてみたが、場所がどうもはっきりしない。
どうもこの道路が旧線跡だと思われる。
<改訂履歴>
2003/6/8 新装オープン